大阪地方裁判所 昭和43年(ワ)363号 判決 1969年3月24日
原告
村上俊明こと黄八元
被告
和田一男
ほか二名
主文
一、被告らは、各自、原告に対し金一、一六一、五八四円および右金員に対する昭和四三年二月一八日からそれぞれ支払ずみに至るまで年五分の割合による金員を支払え。
一、原告のその余の請求を棄却する。
一、訴訟費用はこれを二分しその一を原告の、その余を被告らの負担とする。
一、この判決の第一項は仮りに執行することができる。
一、但し、被告において共同して原告に対し金八五〇、〇〇〇円の担保を供するときは右仮執行を免れることができる。
事実及び理由
第一原告の申立
被告らは、各自原告に対し金二、二〇四、七八六円および右金員に対する昭和四三年二月一八日(本件訴状送達の翌日)から支払ずみに至るまで年五分の割合による金員(民法所定の遅延損害金)を支払え
との判決ならびに仮執行の宣言。
第二争いのない事実
一、本件事故発生
とき 昭和四二年一月一日午後五時一五分ごろ
ところ 岡山県和気郡三石町八木山先、国道上
事故車 小型乗用車(泉五せ二〇六六号)
運転者 被告和田
受傷者 原告(乗用車運転中)
態様 原告が右道路を南進中、先行車が急ブレーキをかけたので追突を避けるため原告も急ブレーキをかけたところ、後続していた事故車に追突され、負傷した。
二、事故車の運行供用
被告前田は事故車を所有しており、被告会社はこれを常に自己の営業のために使用し、右被告両名はいずれも事故車を自己のための運行の用に供していたものである。
三、運転者の過失
被告和田には、充分な車間距離をおかずに走行した過失があつた。
四、損益相殺
原告の後記損害に対しては左の金員が支払われている。
被告和田支払分三〇、〇〇〇円
第三争点
(原告の主張)
一、責任原因
被告らは、各自左の理由により原告に対し後記の損害を賠償すべき義務がある。
(一) 被告和田
根拠 民法七〇九条
該当事実 前記第二の三の事実
(二) 被告会社および被告前田
根拠 自賠法三条
該当事実 前記第二の二の事実
二、損害の発生
(一) 受傷
(1) 傷害の内容
頸椎鞭打損傷
(2) 治療および期間(昭和・年・月・日)
(イ) 自四二・一・七―至〃・〃・二三
右期間中、城東病院へ通院。
(ロ) 自四二・五・一〇―至〃・〃・一五日
右期間中、住本外科へ通院。
(ハ) 自四二・五・一六―至〃・九・二七
右期間中、同外科へ入院。
(ニ) 自四二・九・二八―至〃・一一・二九
右期間中、同外科へ通院。
(ホ) 自四二・一二以降
鈴木病院へ通院治療中。
(ヘ) 残存症状
常に頭重感があり、目まいがすることがある。下半身が冷く背筋、足筋が痛い。歩くとき関節が痛み、暫く立つているだけでも苦痛を感ずる。
(二) 療養関係費
原告の前記傷害の治療のために要した費用は左のとおり。
城東病院治療費 四、五八四円
(三) 逸失利益
原告(二一才)は本件事故のため左のとおり得べかりし利益を失つた。
右算定の根拠は次のとおり。
(1) 職業 大谷電気商会こと大谷茂方勤務。電気の配線作業等に従事。
(2) 収入 月額 三〇、〇〇〇円
(3) 休業期間 昭和四二年五月から同年一二月末まで。
(4) 労働能力、収入の減少ないし喪失 原告は昭和四三年一月以降就労したとしても、前記後遺症のため同月以降九年間は従前の如く就労できず、その間三分の一程度の労働能力を喪失し、右割合による収入の減少を免れない。
(5) 逸失利益額
(イ) 前記休業期間中の逸失利益額は金二四〇、〇〇〇円。
三〇、〇〇〇円×八=二四〇、〇〇〇円
(ロ) 前記労働能力の低下に伴う昭和五一年一二月まで九年間の逸失利益の昭和四三年一月一日における現価は金八九〇、二〇二円(ホフマン式算定法により年五分の中間利息を控除、月毎年金現価率による、但し、円未満切捨)。
一〇、〇〇〇円×八九・〇二〇二=八九〇、二〇二円
(四) 精神的損害(慰謝料) 一、〇〇〇、〇〇〇円
右算定につき特記すべき事実は次のとおり。
(1) 前記傷害の内容、治療の経過、後遺症。
(2) 原告は、四年の電気工事の経験があるが、職業柄高所で仕事をすることも多く復職の見込みがたたない。
(3) 現在、無収入で家族の者の収入に依存している状態であり、将来の結婚すら困難といわざるを得ない。
(五) 弁護士費用
原告が本訴代理人たる弁護士に支払うべき費用は金一〇〇、〇〇〇円である。
二、示談について
(一) 示談の当事者
被告和田と原告との間に、被告ら主張の如き内容の示談契約が締結されたことは認めるが、被告会社および被告前田は右示談の当事者となつていない。よつて、同被告らの主張は理由がない。
(二) 示談の無効
(1) 前記示談契約は意思表示の要素に錯誤があり無効である。
(イ) 原告は、前記傷害の治療のため昭和四二年一月七日から勤務先を休み城東病院に通院していたが、同月二二日、同病院の医師から全快した旨診断され、原告自身も自覚症状がなくなつたので同年二月から出勤、就労するつもりであつた。
(ロ) かかる状況において、同月二七日、被告和田から原告に金三〇、〇〇〇円支払う旨の示談の申出があり、原告としては前記傷害は既に全快したものとしてこれに応じたものである。
(ハ) そして、原告は同年二月から再び前記大谷電気商会に勤務し、同年三月中旬までは体の異常もなく以前のとおり就労していたのである。ところが同月末ごろから、受傷部である頸部のほか、背筋および足筋に鈍痛感、手のふるえ、目まい等の症状が現われ、電気の配線作業等をしていても根気が続かず、職業柄高所で作業する事が多くその最中に目まいが起るという危険な事態が頻発するようになり、その症状は次第に悪化し、同年五月に入ると最早、仕事を続けることも出来なくなつた。そこで、原告は勤務先を休み同月一〇日から住本外科に通院を始め、同外科の医師のすすめで同月一六日から入院療養せざるを得ない事態となつた。原告はその後も通院治療中である。
(ニ) 以上のとおりであつて、前記示談契約は、原告、被告和田間において原告の傷害が昭和四二年一月二七日当時全快したものとの前提でこの点に何等争いなくして締結されたものであるが、事実はこれに反しその後、前記のとおりの後遺症を生じたものである。したがつて、原告の意思表示には重要な部分に錯誤があり、右示談契約は民法九五条により無効である。
(2) 仮りに、右主張が認められないとしても、前記のような事情のため昭和四二年一月二七日当時はかかる重傷の後遺症が発生することは原告、被告和田においてともに到底予想せざるところであつて、その故に金三〇、〇〇〇円という少額で示談が成立しているのである。すなわち、右示談は当時発生していた損害すなわちその当時における休業補償ならびに慰謝料について金三〇、〇〇〇円とすることに合意が成立したものと言うべきである。したがつて右示談によつて放棄された請求権はその当時発生していた損害に限られるものであり、昭和四二年五月以降に発生した損害については原告がなお損害賠償請求権を有することは明らかである。
(被告らの主張)
一、示談の成立
被告らと原告との間では、昭和四二年一月二七日、被告らにおいて原告に対し金三〇、〇〇〇円を支払い、解決ずみとする旨の示談が成立しており、被告らは右示談金三〇、〇〇〇円を支払つた。
よつて、原告の本訴請求は棄却さるべきである。
二、示談の有効性、効力について
(一) 仮りに、原告の意思表示に錯誤があつたとしても、原告には重大な過失があるから自から無効を主張することはできない。すなわち、鞭打症というのは事故後数ケ月を経て発生する可能性のあることは新聞、雑誌などにより周知の事実であるから、示談の際、原告としても当然そのことを予測すべきであつた。然るに、原告はこれに全く注意を払らわず軽々しく示談契約を締結したものでありその過失は重大であるから、錯誤の主張は許されないと解すべきである。
(二) なお、原告は示談において本件事故に関する請求権一切を放棄したものであり、昭和四二年五月以前の損害についてのみ放棄したものではない。
第四証拠〔略〕
第五争点に対する判断
一、責任原因
被告らは、各自、左の理由により原告に対し後記の損害を賠償すべき義務がある。
(一) 被告和田
根拠 民法七〇九条
該当事実 前記第二の三の事実
(二) 被告会社および被告前田
根拠 自賠法三条
該当事実 前記第二の二の事実
二、損害の発生
(一) 受傷
(1) 傷害の内容
原告主張のとおり。(〔証拠略〕)
(2) 治療および期間(昭和・年・月・日)
(イ) 受傷後、頸部に痛みを覚え、昭和四二年一月七日から同月二三日までの間に五回位、城東病院へ通院して服薬による治療を受けた。同病院では頸部のレントゲン検査を受けたが、特に異常は指摘されず、右通院終期には頸部の痛みもとれ自覚症状は消失した。
(ロ) その後、原告は格別の症状を自覚せず就労していたが、同年三月末ごろから、頸の痛み、手足のしびれ・痛み・脱力感等の自覚症状があらわれはじめ次第に増悪化の傾向にあつたので、同年五月一〇日から住本外科へ通院して治療を受けたが軽快せず、同月一六日から同年一〇月八日まで同外科へ入院し、退院後、更に同年一一月二九日まで同外科へ通院して治療を受けた。同外科における入院日数一四六日、通院実日数約二五日。
(ハ) 同外科における入院当初しばらくは発熱状態(三七度四分位)が続き、同外科でのレントゲン検査の結果、第五、六頸椎間に後角形成ありと診断され、入院中、牽引、ギブスベットによる矯正治療を受けた。
(ニ) 同外科退院時には症状は軽快していたが、なお、手足のしびれ、痛み、耳鳴りの症状が残つており、同年一二月六日ごろから翌四三年三月中旬ごろまで居宅に近い鈴木病院へ四日に一度位の割合で通院して治療を受けた。
(ホ) 昭和四四年二月現在、仕事が忙しくなつたりすると手足がだるくなつたり、頭が重くなつたり等の自覚症状があらわれる。(〔証拠略〕)
(二) 療養関係費
原告の前記傷害の治療のために要した費用は左のとおり。
城東病院治療費 四、五八四円(〔証拠略〕)
(三) 逸失利益
原告(二一才)は本件事故のため左のとおり得べかりし利益を失つた。
右算定の根拠は次のとおり。
(1) 職業
原告主張のとおり。(〔証拠略〕)
(2) 収入
月額平均三〇、〇〇〇円と認めるのが相当。(〔証拠略〕)
(3) 休業期間(昭和・年・月・日)
前記治療の経過、原告の職業に照らし、昭和四二年五月一六日から同年一二月末までの休業は止むを得なかつたものと認めるのが相当。(〔証拠略〕)
(4) 労働能力、収入の減少ないし喪失
原告は昭和四三年三月中旬ごろに一応治療を打切り、重機(パワーショベル)の助手として就労しているが、その収入は月額約二〇、〇〇〇円であり、昭和四四年二月現在前記症状のため一ケ月に二、三回は本来の休日以外にも欠勤することおよび前記治療の経過に照らすと、本件受傷による原告の労働能力の低下およびこれに伴う収入の減少は昭和四三年一月一日から同四四年一二月末までの二年間を平均して事故前のそれの一五パーセント程度と認めるのが相当である。右期間以降の損害については本件における立証の程度では肯認し得ない。
(5) 逸失利益額 合計三三七、〇〇〇円
(イ) 前記休業期間中の逸失利益額は金二三五、〇〇〇円。
内訳
昭和四二年五月分
三〇、〇〇〇円×〇・五=一五、〇〇〇円
同年六月以降同年一二月分
三〇、〇〇〇円×七=二一〇、〇〇〇円
(ロ) 前記労働能力低下に伴う逸失利益の昭和四三年一月一日における現価は金一〇二、〇〇〇円(ホフマン)式算定法により年五分の中間利息を控除、月毎年金現価率による、但し、一、〇〇〇円未満切捨)。
三〇、〇〇〇円×〇・一五×二二・八二九=一〇二、〇〇〇円
(四) 精神的損害(慰謝料) 七五〇、〇〇〇円
右算定につき特記すべき事実は次のとおり。
前記傷害の部位程度と治療の経過および残存症状の存在。
(五) 弁護士費用 一〇〇、〇〇〇円
原告主張のとおりと認めるのが相当である。(〔証拠略〕)
三、示談について
(一) 示談の当事者
被告和田と原告との間に被告ら主張の如き示談が成立したことは原告においても認めるところであり争いがないが、被告会社および被告前田も右示談の当事者となつていたものと認むべき証拠は何もなく、かえつて、〔証拠略〕によれば右示談は被告和田と原告を当事者とするものであつたことが窺われるので、被告会社および被告前田の主張は理由がなく、採用し得ない。
(二) 錯誤の存在
〔証拠略〕によれば、原告は、昭和四二年一月二七日、それまでの前記の如き症状および治療の経過に照らし本件事故による傷害は治癒したものと考え、城東病院の診断書を持つて被告和田をたずねたものであり、同被告に対し同日ごろまでの治療費および休業補償として約三〇、〇〇〇円の支払を求めたところ、被告和田においても原告の治療、症状については格別の疑義をいだかず、原告の治療は右時点において打切られるものと考えて原告の右要求に応じたものであることが認められる。
右事実によれば、原告および被告和田の両名は、原告の本件事故による傷害については当時においてすでに今後何らの治療を要しない程に軽快、治癒したものと考え、かつ、これを前提として前記示談契約を締結したものと云うべきところ、その後、数ケ月を経て原告に入院治療約五ケ月を要する程の症状が発現するに至つたことは前示のとおりであるから、右示談における原告の意思表示にはその重要な部分に錯誤が存したものと認めるのが相当である。
(三) 重大な過失の有無
右示談の締結された昭和四二年一月二七日当時、服薬による治療によつてすでに原告の自覚症状が消失していたことは前示のとおりであり、城東病院におけるレントゲン検査では格別の異常は指摘されていなかつたことおよび、当時、すでにその後の症状発現、悪化を予測ないし自覚せしめるような具体的事情が存したとは認められないこと等の事情を考慮すると、医学に関し素人である原告が前記傷害は治癒したと考えて示談契約を締結したとしても無理からぬところであり、新聞や雑誌にいわゆる鞭打症に関し種々の記事が掲載されていることは被告ら主張のとおりとしても、そのことから直ちに、原告に右示談契約の締結上、重大な過失があつたとは断じ得ない。よつて、この点に関する被告らの主張は理由がなく採用し得ない。
第六結論
被告らは、各自、原告に対し金一、一六一、五八四円(前記損害金合計一、一九一、五八四円から損益相殺額三〇、〇〇〇円を控除した残額)および右金員に対する昭和四三年二月一八日(本件訴状送達の翌日)からそれぞれ支払ずみに至るまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金を支払わねばならない。
訴訟費用の負担につき民訴法八九条、九二条、九三条、仮執行および同免脱の宣言につき同法一九六条を適用する。
(裁判官 上野茂)